「気持ちの良い朝」ビジネス

オーストラリアと日本の生活の一番の違いだと思うのは、朝の時間の使い方です。住宅街のカフェは6時とか5時30分くらいから開いているし、友達やコーチとテニスを始めるのは6時30分か7時からです。奥さんは週に一度くらい日の出の時間から始まるビーチヨガに行っています。多くのオフィスも8時くらいから仕事が始まって、夕方4時過ぎくらいには退社しています。

それに比べると、日本は夜型の生活に合わせてスケジュールが組まれている感じがします。朝の7時から開いているテニスコートや、6時から開いているカフェはとても少ないと思います。その代わり、カフェは夜の11時まで開いていたりするので、その時間にカフェインを飲んだら、寝れないじゃん!と思うのがオーストラリア人の感覚です。ちなみにサンシャインコーストのカフェは、午後2時にはほぼ営業が終了しています。

僕は、「朝」というもののイメージが、オーストラリアで暮らしだしてから大きく変わった気がします。日本にいると、早起きして生産性を高めようとか、大企業の社長はみんな早起きとか、朝活をして成長しようみたいに、なんか気合を入れなくちゃいけない雰囲気が漂っていますが、オーストラリアの朝は、ただただ気持ち良い1日の始まりだから、もっと楽しいことをしようよ、みたいな感じです。

美味しいコーヒーを飲みに近くのカフェまで散歩したり、公園で深呼吸したり、運動をしたりして、かけがえのない朝の時間を満喫しています。だって、本当に気持ちがいいのですから。

もし、僕が日本に帰って、何かビジネスを起こすとしたら、「気持ちの良い朝」をテーマにすると思います。今は市場が無さそうに見えても、僕とその仲間が食べていける潜在的な市場は確実にあると思いますよ。

世界で一番住みやすい場所

オーストラリアに住んでいて、いいなあと思うことの一つは、どんな場所に住んでいる人たちも、自分の住んでいる場所は一番好きだと思っていることです。うちの会社のスタッフも、自分たちが住んでいる街が一番だと思っているし、仕事で出会う大学や学校の人たちも、自分たちの街に誇りを持っています。ですから、お客様たちから、どこの街に留学するのがいいですかと聞かれても、直感に任せてくださいとお伝えしています。そしてほとんどのお客様が、自分が留学した街が最高だと思って帰国していくのです。

ということで、あと2週間で旅を始める僕も、今住んでいるところが最高だというメッセージをお届けしたいと思います。

僕が住んでいるのはサンシャインコーストの中でも特筆するものがないマウントクーラム(Mount Coolum)という田舎街です。もちろん、その名前にもあるように山というか丘というか、火山の溶岩が固まった山が海の近くにあるので、印象的な風景は提供してくれますが、それだけです。

でも、落ち着くカフェはあるし、毎朝、海には歩いて行けるし、3つのテニスクラブが車で30分圏内だし、人々はのんびりしているし、日本人はほぼいないので、すぐに顔を覚えられて、挨拶してくれるし、コミュニティーの一員になっている感じが、とても心地よいのです。

「住みやすさ」、それは都会的な選択肢の多さではなく、コミュニティーとの良い距離感である気がします。シャイだからか、あまり積極的にはからんでこないけど、いつもフレンドリーな日本人の夫婦、というのが僕たちのポジションです。旅が終わったら、また帰っておいで!とみんなが声をかけてくれる住みやすい場所に、また戻ってきたいと考えています。

草刈りに予算を使う

オーストラリアでは、しょっちゅう草刈りをしています。街路樹の整備や芝生の管理は、公共の予算で行われている感じだし、僕が住んでいるアパートでも管理人さんたちが、よくメンテナンスをしてくれています。サンシャインコーストをドライブしていると、いつでも、どこかで誰かが草刈りをしているのです。

道路脇の芝生などは、半分雑草たちであっても、短く刈ってあるときれいに見えるものです。きれいにされていると、ゴミを捨てる人もいないので、清掃費なども削減できている感じです。何より、歩いていて気持ちがいいです。

このコロナウイルスの影響で、多くの人たちが職を失い、国や自治体は仕事を作ることを最重要課題と認識しています。オーストラリアでも、新しい鉱山を開発したり、高速道路の拡張など、昔ながらの公共工事を増やすことで仕事を増やしたと自画自賛しています。でも、そんなことで、せっかくの美しい自然が壊されていくのだったら、長期的な視点で見たら、間違いだということを歴史は証明しています。

一方、日本はこれからは人口が減っていくのですから、公共工事は新しいものではなく、美しく維持することにお金を使うべきです。車の通らない道路や橋を作ったり、人が来ない記念館を作るのではなく、歩道の脇に花を植えたり、毎月でも雑草を刈って、人々が気持ちよく生活できるために予算を使って仕事を増やしてみたらいかがでしょう。

そこに住んでいる人々が自分のコミュニティーに誇りを持てるのは、きれいな散歩道がどれだけあるかなのではないかと、いつものカフェまで歩きながら、よく考えるのです。

腕時計ってなんだったんだろう?

オーストラリアに住むようになって、すでに10年近くになりますが、東京で暮らしていた時と変わったことのひとつは、腕時計というものをしなくなったことです。もちろん、スマホの普及で、日本でも腕時計をしなくなった人も増えているでしょうし、Apple Watchのように時計以上の機能を持った腕時計をしている人も多いとは思います。

でも、オーストラリアではどうも日本とは違った時間が流れている気がします。ですから、時間を気にして時計をチェックしている人たちの数は、シドニーなどの都会であっても、東京に比べると随分と少ない感じでした。時計を見ながら焦ってる雰囲気の人はいないし、時間に遅れそうで走ってる人も見かけません。

考えてみると、僕たちの世代は中学生になった時に、みんな腕時計を買ってもらい、自分で時間を管理するのだという意識を植えつけられました。それって、すごく大人になった気がして、嬉しいことだったのですが、実は社会の時間に管理されるために時計を持たされたとも言えます。それから30年、僕は社会の時間のルールにちゃんと合わせられるように、時計を見て自分を管理し、遅刻をしないで学校や会社に行き、時間に追われながらサラリーマン生活をエンジョイしていたのです。

オーストラリアに来て、腕時計をつけなくなって、最初は違和感もありましたが、時間に対する考え方も変わりました。時間に追われるのではなく、時間を気にせず楽しむようになったのです。時間を守ることに気を使うことより、一緒にいる人を楽しますために気を使った方が健全です。

日本で時間を気にせず生きるのは難しいのかもしれませんが、オーストラリアに留学に来る時には、時計を外して来てくれると、さらにオーストラリアの生活を楽しめるかもしれませんよ。

20代の1年

この前の週末は、ブリスベンから350キロほど北上したBundaberg(バンダバーグ)という街にテニスの試合に参加するために滞在しました。

この街は10年くらい前は、ワーキングホリデーの若者たちが、さらに1年間滞在できるセカンドワーホリの権利を得るために働く農場がある場所として有名で、その農場の手配をする会社もあったりして、それなりに知られた街でした。僕も名前は知っていたものの、どんな街なのか全く想像できなかったので、とても楽しみにしていました。農場の街というイメージが強すぎて、すごい田舎の街だと思っていたのですが、サンシャインコーストの街と変わらないくらいのちゃんとした街でした。

さて、そんな地方都市に滞在しながら、かつてここで働いていた何千人もの日本人の若者たちが目指していた、セカンドワーホリとして、もう1年オーストラリアに住めることって、どんな意味があるのだろうと考えていました。

たぶん、人生で一番大切な時代って、20代なんだと思います。多くの人たちが大学を卒業し、社会に出て働き始め、自分のキャリアについて悩み、転勤したり、転職をしたり、留学をしたり、恋愛をしたり、結婚をしたり、子どもができたりなど、本当に様々なことが起きますが、それって20代の特権みたいなものです。でも、その特権って苦労や責任も伴うので、先送りしたくなる気持ちもよくわかります。あるいは時間をとってリセットしたい気持ちも理解できます。ワーホリに出かける人たちの多くが、25歳から30歳までであることを考えても、考えたりリフレッシュするのに時間が必要なのでしょう。

しかし、さらに1年をオーストラリアで過ごすことが、その後のキャリアにおいて、あるいは自分らしいライフスタイルを作っていく上で、本当に必要なのか?セカンドワーホリを目指す人たちは、もう一度考えてみてください。20代でちゃんと日本社会の中でもがくことは、セカンドワーホリで楽しい時間を過ごすことよりも、未来の成功のためには大切かもしれませんよ。

糾弾する権利

僕が住んでいるオーストラリアのクイーンズランド州は、コロナウイルスの感染をほぼ封じ込め、新規感染者数ゼロが何日も続いていたのですが、19歳の女性の3人組がホットスポットのメルボルンに旅行してパーティーして、クイーンズランド州に帰ってきたときに、訪れた場所の嘘の申告をして自己隔離を免れていたら、1週間後に発症して、大問題になっています。

その女性たちがクイーンズランド州に戻ってきてからの1週間にどこのレストランに行ったかなどの、全ての情報が公開され、それに関連しそうな人たちは感染していないかのテストを受けるように指示されて、多くの市民がいきなり不安な状況に陥っています。

その嘘の申告をした女性たちは、顔も名前も公開され、犯罪者として警察の取り調べを受けているわけですが、当然ながら、その人たちのSNSは炎上して誹謗中傷が絶えないようです。

そんな状況で、朝、テニスにいく途中の地元のFMを聞いていたら、パーソナリティーの女性が

「あの女性たちは、本当にばかで、間違った意思決定をして、嘘をついて、最悪で、これから裁判で罪や罰金などが科されるけれども、それを個人的に中傷する権利は皆さんにはない。それは絶対にやるべきではない。」

と力説していました。

そう、SNSで個人的な中傷や悪意のあるコメントをするのは人道的にも良くないからやめましょうという議論がありますが、そもそも、多くの人たちにとって、そんなことをする権利が無いという言葉に妙に納得をしました。権利が無いからやってはいけない。権利って、認められることばかり議論されてきましたが、認めてはいけないことも大切なのではないかと、朝のドライブをしながら考えていました。

正しい平常に戻るということ

コロナウイルスの影響で、オーストラリアのカフェがテイクアウト(こちらではTake away)のみの営業になったときに、Keepcupなどのマイカップの使用も禁止され、使い捨ての紙カップのみとなっていました。環境問題を考え、留学生全員にKeepcupのプレゼントをしていた僕たちにとっては、とても複雑な気持ちでしたが、地元のカフェも応援したいので、紙カップでも時々買いに行っていました。

そして、ほとんど感染者がいなくなった僕の住んでいる地域では、先週くらいからKeepcupなどのマイカップの持ち込みが可能になりました。そんな小さなことでも、正しい生活に戻っていくことに、僕は喜びを感じます。なぜなら、それって少し正しい社会に軌道修正された気がするからです。

現在のように、社会が非常時には、環境に悪いことは分かっていても、清潔であるからと言う理由で、使い捨てパッケージや容器が無尽蔵に使われたり、人々がそれに疑問を感じなくなります。それって、「良い社会」という基準からすると、後退であり、時間が経てば経つほど、その非常時が平常になっていく危険性をはらんでいます。

ですから、僕たちは、何があるべき姿なのかということに敏感になっていないと、非常時なんだからという論理に、つい惑わされてしまいます。留学業界でも、今は特別だからという理由で、キャンセルや返金の規定をいきなり変更してくる学校やエージェントが今後出てくると思います。僕たちは、そんな人たちを警戒しながら、常に正しい対応を続けていきたいと思っています。

街づくりを学ぶなら

先日、ニュースを見ていたら、コロナウイルスの自粛により、自宅から仕事をしている若者たちが住みたい場所として、今までの大都市ではなく、ゴールドコースト、ニューカッスル、サンシャインコーストなどの地方の街が人気が出てきたという話をやっていました。それらの街は、近くの大都市(ブリスベンやシドニー)まで、1時間から2時間圏内なので、地方というほど遠くはありません。

僕はサンシャインコーストに住んで、6年になりますが、この後、旅にしばらく出かけたとしても、ここに戻ってくると思います。(もしかしたら娘たちが住んでいるパースに住む可能性もありますが。)豊かな自然、信頼できるファーマーズマーケット、素朴なカフェやレストラン、すぐに予約できるテニスコートと友だち。緑をメンテナンスする人たち、そして、年間300日の晴れの日。かつては、引退した人たちが住む年寄りの街だったのが、引退するまで待てない若い世代たちが、リモートワークという新しいワークスタイルとともに、増えてきているのです。考えてみれば、まさに僕もその一人です。

これから、日本の若者たちの中でも、このようなライフスタイルをしていきたい人たちが少しずつでも増えていくと思います。残念ながら、そのような人たちが満足できるような街が多くはないのでしょうが、房総や軽井沢や那須などは可能性があるのかもしれません。でも、無ければ作っていけばいいのだから、とても面白い分野だと思います。

今まで、街の開発や地方の開発というのは、どんなに素敵なコンセプトを考えたとしても、現実的にはミニ東京っぽい、お洒落な消費活動が実現できることが目的になってしまっていた感じがします。物質的ではない、生活の豊さを目的とした街づくりを勉強したり体験したりしたい人は、オーストラリアの地方都市にある大学に行くことをお勧めしますよ。大学の勉強だけでなく、それらの街での生活はきっと多くのヒントを与えてくれると思います。

社会を優しくする方法

コロナウイルスが流行し始めた頃、オーストラリアでは1人の感染者が2人に感染させると社会全体があっという間に感染者だらけになるシミュレーションの映像をよく流していました。社会的な接触を無くすことが、感染者を増やさないための唯一の方法なのだということをアピールするのに、とても有効な方法だったと思います。

これから、経済も人々の心もすさんでしまった社会をどう立て直していくかを考えた時に、この感染シミュレーションを使うことができないのかをふと考えました。ウイルスの替わりに「優しさ」を感染させることが出来ないのか?ということです。

自分の人生で精一杯で良い社会を作る気がなさそうな政治家や役人の方々に頼っていても時間の無駄だし、かと言って、このままだと、なんかネガティブなウイルスが社会全体に蔓延していきそうだけど、僕たちにできることから始めてみるべきだと思うのです。

オーストラリアの、僕が住んでいるちょっと田舎なサンシャインコーストでは、今は出来ないけど、電車やバスで隣に座った人から話しかけられたり、カフェで隣のテーブルに座った人から、日本での旅の思い出を聞かされることがよくあります。ほのぼのとした時間が感染していきます。留学やワーホリにきて、オーストラリアに住みたい人が増えるのは、そんな経験があるからだと思います。

日本でも、みんなが毎日2人の人に優しさを感染させていったら、感染が爆発して、半年後にはもっと生きやすい社会になっているかもしれません。試してみるのにお金はいらないので、友達でも家族でも偶然カフェの隣に座った人にでも、少し優しくしてみましょう。「吉祥寺のカフェで優しさの集団感染!」みたいな記事を目にするのを楽しみにしています。

民度の違い?

家の近くのある道路に、2車線が合流して1車線になるところがあります。そこでは、合流地点のずいぶん手前から、みんなが合流される側を走り、片側だけに長い列ができます。地元の人ではなく、運悪く合流する側をすいてるからという理由で走っている人は、合流地点で、本当に申し訳なさそうに列に入っていきます。でも、「そんなことは気にしなくていいよ、どうぞ、入んな。」という感じで、みんな優しく、合流を許しています。

これは僕が住んでいるのが田舎で、オーストラリアでも都会ではそんなことはないのかもしれませんが、むかーしの日本の道路にもそんな余裕がありました。首都高はいつもすごく混んでたけど、太っ腹のおじさんが、免許取立てでポンコツな車を恐る恐る運転している僕を割り込ませてくれました。

でもバブル期の頃から、なんか攻めたもん勝ちな雰囲気になってきて、お先にどうぞみたいな余裕は失われてきたと思います。

オーストラリアではバスが出発する際に右のウインカーを出したら、後続の車は必ず止まるのに、日本では車の列が切れるまでバスは出発することが出来ません。たぶん、法律上はどちらの国も、バスが優先のはずですが、どうしてでしょうね。

日本の社会の居心地が悪くて、オーストラリアにやってきてオーストラリアの社会のファンになる人が多い理由は、自分だけ良ければいいという人々に対する嫌悪感に疲れた時に、「お先にどうぞ」的な余裕がこの国ではまだ残っているからかもしれません。

日本で欧米ほどコロナウイルス の被害がなかったのは、民度の違いだそうですが(笑)、その日本よりも人口比を考慮しても随分と被害が少ないオーストラリアはさらに民度が高いということですかね。