2050年に向けての今日の消費

オーストラリアでは2050年のカーボンニュートラルの宣言をするかどうかで政治家たちは揉めていますが、オーストラリアのように資源や畜産などが経済を支える大きな柱になっていると、産業界からは大きなプレッシャーがかかっているのでしょう。

そして、日本の経産省のサイトなどを見ると、カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略などのページがあったりして、どうしても国や産業界は環境保護と経済成長を両立させたいのですね。でも、今回のコロナウイルスのロックダウンの大都市では大気がきれいになったり、エネルギーの消費が減ったりしたことを見れば、人が減ったり動かなくなると環境には良い影響を与えることが分かります。

ということは、世の中の全ての人々が、少し動くのを止めたり、夜は早く寝て電気を消したり、食べる量を減らすだけでも、随分と環境は良くなり、国に頼ることも少し減るかもしれません。だいたい、僕たちの子どもたちや孫たちやさらにその先の世代のために(もちろん、動物たちも)環境をよくしていこうという話なはずなので、人任せ、国任せにしてしまうのは責任から逃げていることになります。


僕と奥さんは、かなりのガソリンを使って、オーストラリアを一周してきたので、罪滅ぼしの意味もこめて、いつも買い物ではフードマイルが少ない(短い?)ものを買うようにしていました。つまり地元で取れた野菜や果物をマーケットで買ったり、地元の海で獲れた魚を料理していました。最近は、朝の時間に欠かせないコーヒーもオーストラリアのバイロンベイ近郊で栽培されている豆を発見して、飲み始めました。あまり期待していなかったのですが、クセがなくて美味しいです。オーストラリアでコーヒー栽培なんて想像したことなかったけど、頑張っている人たちはいるんですね。

僕は、2050年には生きてはいないと思うけど、その年が地球にとって良い年であることを願って、これからもちゃんと気を使って今日の消費をしていきたいと思います。

これって、理想的な老後?

Bowenというクイーンズランド州の海沿いの街に滞在しています。クイーンズランド州の人にはマンゴーの産地として有名で、我が家では11月から年末にかけてはBowen Mangoが夏のデザートです。(年が明けると、なぜか飽きちゃうんだけど)


この街に来たのはもちろん初めてなのですが、冬は落ち着いた観光地という感じです。ほぼ毎日のように、ランチの時間は宿からすぐのビーチに行って、ちょっと泳いでグレートバリアリーフの端っこのサンゴとそこで泳ぐ小さな魚たちに挨拶するという日課でした。


ビーチには、寒さを逃れてやってきたお年寄りたちを多く見かけました。毎日同じようなメンバーのお年寄りのご夫婦たちが(といっても僕といくつも違わない感じですが。)のんびり、日光浴をして本や雑誌を読んでいました。スマホのない時代に戻った感じで、懐かしかったです。


でも、そんな幸せそうな姿を見ながら、ふと、これって、僕が老後にやりたいことなのかな?という疑問も湧きました。

一生懸命働いて、引退して、子どもたちも巣立って、心配事も少なくなって、でも残り時間も見えてきた時に、のんびりとビーチで読みたかった本でも読もう!って思うのでしょうか?今は、良くわかりません。わからないということは、きっと違うのだと思います。

たぶん、僕の場合、旅をしたり、若者たちと話したりすることなど、やりたいことをやり続けているうちに、だんだん衰えたり、病気になって、それが出来なくなって人生が終わっていくのでしょう。だから、若い人たちにアドバイスがあるとしたら、やりたいことは、準備ができるまで待ってないで、今日から始めた方がいいのです。もし、やりたいことがない人は、やりたくないことはやらないで生きていけばいいのです。

理想的な老後も平均的な老後もマスコミや社会が作った幻想のひとつです。そんなもののために、若いうちに何かをセーブしないでくださいね。同じ人間なら19歳でも29歳でも59歳でも、性格や考え方はほとんど変わりません。19歳の時に、我慢して生きていると、59歳でも79歳になった時のことを心配するようになっちゃいますよ。

今年は準備期間

今週、59歳になりました。とうとう来年は還暦ということで、それ以降はもらいもんの人生なので、ひたすら信念を貫いて生きていきたいと思います。おかげさまで、仕事においては、業界は危機的な状況ですが、僕の会社はあと2年くらい国境が開かなくても生きていけるだけの体力はあるし、プライベートでは娘たちは自立して全く手がかからない状況だし、僕は相変わらず健康で奥さんと車に乗って旅を続けていられて、あまり不安になったり心配することがありません。


この幸運に感謝しながら、この1年は60歳以降に向けての準備をしようと思っています。仕事では、オーストラリアの国境が開くのが来年の今頃として、それまでは、サポートをしている留学生たちに出来るだけ多く会って、話をしていきたいと思います。若者たちと話していて、いつも気になるのは、日本社会ではこうでなくてはいけないという常識?に洗脳とはいかないまでも、大きな影響を受けていることです。もっとこんな風に考えてみたらどうかな?ということを60歳目前のおじさんが言うのもどうかと思うけど、そのくらい窮屈な考え方を若者たちにさせている社会をなんとかしなくちゃと思います。

プライベートでは、あと半年くらいはこの旅の生活を続けて、自然や社会を見る目を養うことと、ミニマリスト的な生活をさらに極めていきたいと思っています。もう8ヶ月も車に荷物を積んで旅をしているわけですが、それでも、一度もあるいはほとんど使っていないものも荷物の中に入っています。必要でかつ愛着のあるものだけと共に生きていくために、修行の日々は続きます。

そして、テニス。シニアのテニスは5歳刻みでカテゴリーが分かれていて、来年は60歳から64歳までのカテゴリーの一番若い!年齢なので、チャンスなのです。旅の途中で立ち寄る街のテニスクラブを訪ねて、プライベートレッスンなどを受けてきましたが、技術的にはまだまだ上手くなっているし、ショットにおける選択ミスがとても少なくなったことを実感しています。60代ではいつか、オーストラリアのトップ10に入れるように、トレーニングを続けたいと思います。

なんか、面白みのない話題しか並んでいませんが、高級な食べ物とかお酒とか豪華な生活みたいなものに、本当に興味がないので、きっと体が動かなくなるまで、超質素でストイックな生活が続いていくのだと思います。それでも良ければ、ランチ行きましょうと声をかけてくださいね。

「気持ちの良い朝」ビジネス

オーストラリアと日本の生活の一番の違いだと思うのは、朝の時間の使い方です。住宅街のカフェは6時とか5時30分くらいから開いているし、友達やコーチとテニスを始めるのは6時30分か7時からです。奥さんは週に一度くらい日の出の時間から始まるビーチヨガに行っています。多くのオフィスも8時くらいから仕事が始まって、夕方4時過ぎくらいには退社しています。


それに比べると、日本は夜型の生活に合わせてスケジュールが組まれている感じがします。朝の7時から開いているテニスコートや、6時から開いているカフェはとても少ないと思います。その代わり、カフェは夜の11時まで開いていたりするので、その時間にカフェインを飲んだら、寝れないじゃん!と思うのがオーストラリア人の感覚です。ちなみにサンシャインコーストのカフェは、午後2時にはほぼ営業が終了しています。

僕は、「朝」というもののイメージが、オーストラリアで暮らしだしてから大きく変わった気がします。日本にいると、早起きして生産性を高めようとか、大企業の社長はみんな早起きとか、朝活をして成長しようみたいに、なんか気合を入れなくちゃいけない雰囲気が漂っていますが、オーストラリアの朝は、ただただ気持ち良い1日の始まりだから、もっと楽しいことをしようよ、みたいな感じです。

美味しいコーヒーを飲みに近くのカフェまで散歩したり、公園で深呼吸したり、運動をしたりして、かけがえのない朝の時間を満喫しています。だって、本当に気持ちがいいのですから。

もし、僕が日本に帰って、何かビジネスを起こすとしたら、「気持ちの良い朝」をテーマにすると思います。今は市場が無さそうに見えても、僕とその仲間が食べていける潜在的な市場は確実にあると思いますよ。

世界で一番住みやすい場所

オーストラリアに住んでいて、いいなあと思うことの一つは、どんな場所に住んでいる人たちも、自分の住んでいる場所は一番好きだと思っていることです。うちの会社のスタッフも、自分たちが住んでいる街が一番だと思っているし、仕事で出会う大学や学校の人たちも、自分たちの街に誇りを持っています。ですから、お客様たちから、どこの街に留学するのがいいですかと聞かれても、直感に任せてくださいとお伝えしています。そしてほとんどのお客様が、自分が留学した街が最高だと思って帰国していくのです。

ということで、あと2週間で旅を始める僕も、今住んでいるところが最高だというメッセージをお届けしたいと思います。


僕が住んでいるのはサンシャインコーストの中でも特筆するものがないマウントクーラム(Mount Coolum)という田舎街です。もちろん、その名前にもあるように山というか丘というか、火山の溶岩が固まった山が海の近くにあるので、印象的な風景は提供してくれますが、それだけです。


でも、落ち着くカフェはあるし、毎朝、海には歩いて行けるし、3つのテニスクラブが車で30分圏内だし、人々はのんびりしているし、日本人はほぼいないので、すぐに顔を覚えられて、挨拶してくれるし、コミュニティーの一員になっている感じが、とても心地よいのです。

「住みやすさ」、それは都会的な選択肢の多さではなく、コミュニティーとの良い距離感である気がします。シャイだからか、あまり積極的にはからんでこないけど、いつもフレンドリーな日本人の夫婦、というのが僕たちのポジションです。旅が終わったら、また帰っておいで!とみんなが声をかけてくれる住みやすい場所に、また戻ってきたいと考えています。

草刈りに予算を使う

オーストラリアでは、しょっちゅう草刈りをしています。街路樹の整備や芝生の管理は、公共の予算で行われている感じだし、僕が住んでいるアパートでも管理人さんたちが、よくメンテナンスをしてくれています。サンシャインコーストをドライブしていると、いつでも、どこかで誰かが草刈りをしているのです。


道路脇の芝生などは、半分雑草たちであっても、短く刈ってあるときれいに見えるものです。きれいにされていると、ゴミを捨てる人もいないので、清掃費なども削減できている感じです。何より、歩いていて気持ちがいいです。


このコロナウイルスの影響で、多くの人たちが職を失い、国や自治体は仕事を作ることを最重要課題と認識しています。オーストラリアでも、新しい鉱山を開発したり、高速道路の拡張など、昔ながらの公共工事を増やすことで仕事を増やしたと自画自賛しています。でも、そんなことで、せっかくの美しい自然が壊されていくのだったら、長期的な視点で見たら、間違いだということを歴史は証明しています。

一方、日本はこれからは人口が減っていくのですから、公共工事は新しいものではなく、美しく維持することにお金を使うべきです。車の通らない道路や橋を作ったり、人が来ない記念館を作るのではなく、歩道の脇に花を植えたり、毎月でも雑草を刈って、人々が気持ちよく生活できるために予算を使って仕事を増やしてみたらいかがでしょう。

そこに住んでいる人々が自分のコミュニティーに誇りを持てるのは、きれいな散歩道がどれだけあるかなのではないかと、いつものカフェまで歩きながら、よく考えるのです。

腕時計ってなんだったんだろう?

オーストラリアに住むようになって、すでに10年近くになりますが、東京で暮らしていた時と変わったことのひとつは、腕時計というものをしなくなったことです。もちろん、スマホの普及で、日本でも腕時計をしなくなった人も増えているでしょうし、Apple Watchのように時計以上の機能を持った腕時計をしている人も多いとは思います。

でも、オーストラリアではどうも日本とは違った時間が流れている気がします。ですから、時間を気にして時計をチェックしている人たちの数は、シドニーなどの都会であっても、東京に比べると随分と少ない感じでした。時計を見ながら焦ってる雰囲気の人はいないし、時間に遅れそうで走ってる人も見かけません。


考えてみると、僕たちの世代は中学生になった時に、みんな腕時計を買ってもらい、自分で時間を管理するのだという意識を植えつけられました。それって、すごく大人になった気がして、嬉しいことだったのですが、実は社会の時間に管理されるために時計を持たされたとも言えます。それから30年、僕は社会の時間のルールにちゃんと合わせられるように、時計を見て自分を管理し、遅刻をしないで学校や会社に行き、時間に追われながらサラリーマン生活をエンジョイしていたのです。

オーストラリアに来て、腕時計をつけなくなって、最初は違和感もありましたが、時間に対する考え方も変わりました。時間に追われるのではなく、時間を気にせず楽しむようになったのです。時間を守ることに気を使うことより、一緒にいる人を楽しますために気を使った方が健全です。

日本で時間を気にせず生きるのは難しいのかもしれませんが、オーストラリアに留学に来る時には、時計を外して来てくれると、さらにオーストラリアの生活を楽しめるかもしれませんよ。

20代の1年

この前の週末は、ブリスベンから350キロほど北上したBundaberg(バンダバーグ)という街にテニスの試合に参加するために滞在しました。

この街は10年くらい前は、ワーキングホリデーの若者たちが、さらに1年間滞在できるセカンドワーホリの権利を得るために働く農場がある場所として有名で、その農場の手配をする会社もあったりして、それなりに知られた街でした。僕も名前は知っていたものの、どんな街なのか全く想像できなかったので、とても楽しみにしていました。農場の街というイメージが強すぎて、すごい田舎の街だと思っていたのですが、サンシャインコーストの街と変わらないくらいのちゃんとした街でした。


さて、そんな地方都市に滞在しながら、かつてここで働いていた何千人もの日本人の若者たちが目指していた、セカンドワーホリとして、もう1年オーストラリアに住めることって、どんな意味があるのだろうと考えていました。


たぶん、人生で一番大切な時代って、20代なんだと思います。多くの人たちが大学を卒業し、社会に出て働き始め、自分のキャリアについて悩み、転勤したり、転職をしたり、留学をしたり、恋愛をしたり、結婚をしたり、子どもができたりなど、本当に様々なことが起きますが、それって20代の特権みたいなものです。でも、その特権って苦労や責任も伴うので、先送りしたくなる気持ちもよくわかります。あるいは時間をとってリセットしたい気持ちも理解できます。ワーホリに出かける人たちの多くが、25歳から30歳までであることを考えても、考えたりリフレッシュするのに時間が必要なのでしょう。

しかし、さらに1年をオーストラリアで過ごすことが、その後のキャリアにおいて、あるいは自分らしいライフスタイルを作っていく上で、本当に必要なのか?セカンドワーホリを目指す人たちは、もう一度考えてみてください。20代でちゃんと日本社会の中でもがくことは、セカンドワーホリで楽しい時間を過ごすことよりも、未来の成功のためには大切かもしれませんよ。

糾弾する権利

僕が住んでいるオーストラリアのクイーンズランド州は、コロナウイルスの感染をほぼ封じ込め、新規感染者数ゼロが何日も続いていたのですが、19歳の女性の3人組がホットスポットのメルボルンに旅行してパーティーして、クイーンズランド州に帰ってきたときに、訪れた場所の嘘の申告をして自己隔離を免れていたら、1週間後に発症して、大問題になっています。


その女性たちがクイーンズランド州に戻ってきてからの1週間にどこのレストランに行ったかなどの、全ての情報が公開され、それに関連しそうな人たちは感染していないかのテストを受けるように指示されて、多くの市民がいきなり不安な状況に陥っています。

その嘘の申告をした女性たちは、顔も名前も公開され、犯罪者として警察の取り調べを受けているわけですが、当然ながら、その人たちのSNSは炎上して誹謗中傷が絶えないようです。

そんな状況で、朝、テニスにいく途中の地元のFMを聞いていたら、パーソナリティーの女性が

「あの女性たちは、本当にばかで、間違った意思決定をして、嘘をついて、最悪で、これから裁判で罪や罰金などが科されるけれども、それを個人的に中傷する権利は皆さんにはない。それは絶対にやるべきではない。」

と力説していました。

そう、SNSで個人的な中傷や悪意のあるコメントをするのは人道的にも良くないからやめましょうという議論がありますが、そもそも、多くの人たちにとって、そんなことをする権利が無いという言葉に妙に納得をしました。権利が無いからやってはいけない。権利って、認められることばかり議論されてきましたが、認めてはいけないことも大切なのではないかと、朝のドライブをしながら考えていました。

正しい平常に戻るということ

コロナウイルスの影響で、オーストラリアのカフェがテイクアウト(こちらではTake away)のみの営業になったときに、Keepcupなどのマイカップの使用も禁止され、使い捨ての紙カップのみとなっていました。環境問題を考え、留学生全員にKeepcupのプレゼントをしていた僕たちにとっては、とても複雑な気持ちでしたが、地元のカフェも応援したいので、紙カップでも時々買いに行っていました。


そして、ほとんど感染者がいなくなった僕の住んでいる地域では、先週くらいからKeepcupなどのマイカップの持ち込みが可能になりました。そんな小さなことでも、正しい生活に戻っていくことに、僕は喜びを感じます。なぜなら、それって少し正しい社会に軌道修正された気がするからです。

現在のように、社会が非常時には、環境に悪いことは分かっていても、清潔であるからと言う理由で、使い捨てパッケージや容器が無尽蔵に使われたり、人々がそれに疑問を感じなくなります。それって、「良い社会」という基準からすると、後退であり、時間が経てば経つほど、その非常時が平常になっていく危険性をはらんでいます。

ですから、僕たちは、何があるべき姿なのかということに敏感になっていないと、非常時なんだからという論理に、つい惑わされてしまいます。留学業界でも、今は特別だからという理由で、キャンセルや返金の規定をいきなり変更してくる学校やエージェントが今後出てくると思います。僕たちは、そんな人たちを警戒しながら、常に正しい対応を続けていきたいと思っています。