ふたつの思い

58歳になりました。この年齢になってくると今まで生きてこれてめでたいということもありますが、残りの時間がまた1年減ったみたいな感じの方が強いです。今年は、正月に父親が亡くなり、5月には小学校から高校まで同級生だった友人がコロナウイルスで亡くなったりと、死について考える時間が多かった半年でした。


死を意識すると、残りの人生において、2つの異なった方向の思いが生まれてきます。

ひとつは、モノを出来るだけ減らして身軽になっていかなくてはという思い。死んだ時に、残った人が処分に困らないように、身辺整理というのは元気な今から始めなくちゃいけないと思います。この年齢になると物欲はほとんどなくなってくるので(テニスグッズしか、最近買っていない)これは、どんどんデジタル化などをして、進めていける気がします。コロナウイルスのおかげで延期にした車での旅の生活も11月からはスタートする予定なので、それまでにスーツケース 2つくらいに全ての所有物が収まるようにしたいと思います。

もうひとつは、死んだ時に何か世の中に残しておきたいという思い。多くの成功者たちは、財団を作ったり、ビルを作ったり、銅像を作ったりするわけですが、僕がそれだけのお金を持つことはないでしょうし、そんな世界にはあまり興味はありません。しかし、幸運なことに僕の文章やメッセージは、本を出版することもないのに、このブログのおかげで世の中にしばらく残ります。それって、何かとてもありがたいことだと思うのです。etonobuhiko.comという僕だけの世界を、もっと大切にして、これからも少なくとも毎週1回、できればもっと頻度を上げて更新をしていきたいと思います。ブログを書くことは、ほとんど修行みたいな世界です。でも、この修行のおかげで、人と違った視点を探すことや、少しだけ深く考えることに慣れてきた気がします。そして、それは経営にもとても活きてきます。

自分らしい人生を生きていることを表現したり証明する場を、誰もがネット上に持つことが、良い社会を作るインフラの一つになれば良いなと思っています。

善意を信じる?信じない?

経営学の授業や、ビジネススクールなどの「リーダーシップ」や「組織論」の授業で教わることのひとつに、メンバーにちゃんと働いてもらうためには罰則(パニッシュメント)を強化しても全く効果はない。なぜなら、人々は罰を受けないように行動するからだ。みたいなことがあります。遅刻をしたら罰金!と言われたら、時刻通りに会社には来るけど、ただいるだけで、生産性やモチベーションにはなんの効果もない、というようなことです。


つまり、罰則は人にあることをさせないためにだけ、効果があるということです。そして、オーストラリアは、新型コロナウイルス の感染を広げないために、まるで理不尽な校則みたいに、罰則を強化しています。

自己隔離中に外出して友達と会っていれば最高で100万円くらいの罰金、家族以外の友人たちと3人以上で集まって近距離で話していたら10万円くらいの罰金、ビーチで運動ではなく寝ていたら罰金など、マジですか?というくらいの罰金を課せられます。すでにオーストラリア全土で100万ドル以上の罰金が徴収されているようです。

どんな真面目な人でも、この自粛モードが長く続くと、「なぜ、こんなことを長く続けていなくてはいけないのだろう?この近所でコロナウイルス なんているわけないし、ズルをしている人もいるはずなのに。。」とネガティブな心が出てきます。日本でもそんなクレームがSNSでは流れていますよね。そんな時に、こんなバカな奴らがこんなに罰金をくらった、みたいなニュースはある種の爽快感とともに、多くの人にもう少し頑張ってみようと思わせる効果もあるのかもしれません。

オーストラリア政府が、そんな人間の愚かな心まで見通して、この罰金システムを作ったのであれば、それはすごいことかもしれません。日本政府は日本人の善意を信頼して、罰則のない自粛モードを展開しています。果たして、どちらの手法が効果があったのか、社会学の研究テーマとしてもすごく面白そうですね。

どんなコンセンサスがなされるのか

1月には中国だけの話でしょうとお気楽に考えていた新型コロナウイルスが3ヶ月で世界を暗黒におとしいれています。最初の頃は、どの国も、オリンピックのメダル争いのように、各国ごとの感染者数を表にして、うちの国は少なくてすごい!みたいなことをやっていましたが、今となってはそんなことをやっていた国がまずいことになっています。


オーストラリアはとても厳しいルールを設定して感染を防いでいるので、1ヶ月後くらいには良い結果が出ていることが予想できます。他の国たちの状況を見て、いち早く対策を打ったのは多くの国民にも支持をされているようです。

しかし、再来年に同じことが起きて、世界各国が今回と同じようなレベルの対応を取ったら、世界経済は本当に崩壊してしまうと思います。ですから、今回の教訓から、どのようなコンセンサスを世界各国で協力して作るかが大きな鍵で、私たちはそれが出来たかを確認する必要があると思います。

例えば、素人の僕が考えても、

世界のどこか(南の島だろうが日本だろうが)でこのようなウイルスによる感染が発見されたら、その瞬間から1ヶ月は世界中で人々の移動を禁止する。当然ながら飛行機も飛ばさない。世界各国が同時にやることに意義がある。

1ヶ月もすれば、どこが安心な国か、感染者がいる国かが把握できる。

安心な国同士での人々の移動は再開、感染者がいる国では、感染者が回復するまで、あるいは全ての感染者を隔離するなどのコントロールできるまで禁止。

こんなステップを世界各国が共有するだけでも、ずいぶんと危機の時間の短縮ができるはずです。今回のように半年以上、もしかしたら1年も人々が動けなくなったり、ビジネスが止まったりすることを回避できるのです。

このグローバルな時代、地球の片隅で起こったことが、僕たちの日々の生活に大きな影響を与えることを改めて認識し、くだらないナショナリズムは捨てて、世界的に協力をしていくことを学ばなければ、今回いきなりの悲劇に見舞われた人たちに申し訳ないと思います。

自然とのソーシャル・ディスタンス

オーストラリアでは、現在、同居家族以外の人との物理的な距離を1.5メートル取ることを義務付けられていて、それをSocial Distance と呼んでいます。友だちと話すときも、2メートルくらい離れて、なんかよそよそしく話をしています。


今回の新コロナウイルス問題では、多くの方々が生き残ることだけを(生物学的にも社会学的にも)考えていらっしゃると思いますが、僕たちはここから様々なことを学んで次に生かしていきたいところです。

そもそも今回のコロナウイルス は新しくできたものではなく、すでに動物の中で生きていたウイルスに、人間が新しく出逢ってしまったことが「新」なので、出逢うべきウイルスくんだったのかが最初の学びだと思います。

そう、つまりは出逢うべきウイルスではなかったわけです。世界の誰かが、コウモリか何かに近づきすぎたのが原因なのです。それは純粋に好奇心だったのか、偶然だったのか、アクシデントだったのかはわかりませんが、食べちゃったり、触っちゃったり、殺しちゃったりしたわけです。

ここでもう一度人間と自然との距離を考えてみるべきなんだと思います。僕たちは自然に生かされています。多くの人たちが自然をリスペクトし、全ての人が自然の恩恵で生きています。しかし、それは全ての自然に踏み込んでもいいということではなさそうです。

自然にはまだまだ僕たちの知らないパンドラの箱が残されているでしょう。それらを開けてもいいのか、開けるならどう開けるのか、自然とのSocial Distance(この矛盾した言葉遊びはけっこう気に入っています。)を保ちながら、学び、知恵をつけていかなくてはいけないのです。

ちょっとした生き方の修正

今週は、もちろん新コロナウイルスの影響で世界中が大きく混乱したことや、9年前の震災の影響がまだ深く残っていることを認識した1週間だったわけですが、そんな時だからこそ個人の生き方について考えるべきタイミングなんだと思います。

社会が混乱していると自分で考えることが面倒になっていきます。みんなと一緒に「困った困った」と言ってる方が、ずっと精神的には楽だからです。でも社会が混乱しているからこそ、どうやって自立して生きていくかを考える時間を作ってみましょう。(でもマスクの転売はせこいです。)


100年前に比べて、社会はずいぶんと生きやすくはなっていると思いますが、それでも何年かごとに、自然?は人間社会を翻弄します。そして社会が全員を守ってくれることはありません。ですから、こんな機会に、一人一人が何かしらの仮説を持って生き方をちょっと修正すべきなんだと思います。

そして、その修正内容は人それぞれなので、批判の対象などにはしてはいけないのだと思います。ちなみに僕は、今まで同様に、小さな生活をさらに小さくして、フットワーク軽く生きていきたいと思います。この6月からはまた旅も始めます。借金や固定資産に縛られることなく、背伸びをせずにインスタ映えは気にしない生活をして、でも人に会うことや若者の相談にのることには時間やお金を喜んで使っていきたいと思います。そんな生き方が、僕にとっては、社会が混乱してもなんとか生き残っていくための方法なのです。皆さんは、どうですか?

3秒間の余裕

日本出張中です。オフィスのある渋谷は、コロナウイルスの関係で中国からの観光客が少ないせいか、いつもより道が空いている気がします。普段は長蛇の列のお寿司屋さんも、今日は随分と待っている人が少ない感じでした。きっと観光客をターゲットとしたビジネスは、大きな打撃を受けているのだと思います。早く収まっていくことを願うばかりです。

さて、日本に来ると、オーストラリアと日本のちょっとした違いを書いているのですが、今日はエレベーターのお話です。日本から、オーストラリアに留学や移住して暮らし出すと、時間の流れが急に遅くなります。オーストラリアでエレベーターに乗って、なんで、みんな「閉じる」のボタンを押さないんだろうと最初の頃は不思議でした。日本人はエレベーターに乗り込んだら必ず「閉じる」のボタンを押しますよね。ただでさえ反応の遅いオーストラリアのエレベーターの扉が閉まるのを3秒?5秒?待つ余裕がありませんでした。


ところが、オーストラリアに住み出して約10年、全くその3秒を待つことが気にならなくなり、エレベーターに乗る時は考え事をしたり、人と話をしたりして過ごしています。そんな感じで、昨日、渋谷のオフィスのエレベーターに最後に乗り込んで考え事をしていたら、先に乗っていた人が、「なんでこのおっさんは、閉じるのボタンを押さないでのんびりしてるわけ?」という顔をしながらボタンを押してました。あー、ごめんね。

でも、この3秒間に、「おはよう」「寒いですね」みたいな挨拶や会話をする発想を持つことで、日本は少し住みやすくて素敵な社会になると思いますよ。

What a wonderful world

昨日、夕方に父親が89歳で亡くなりました。人が老衰で枯れるように亡くなる瞬間を共有できたことは、いつか自分にもやってくるその瞬間がどんなものかをイメージすることができました。

施設での介護が必要になり、ちょうど1年、大きな病気をすることもなく、徐々に認知症も進み、体力も無くなりながら、安らかに亡くなることが出来たのは、常に体調に気をつけ、質素な生活を続けていた結果だったんだなと思います。


施設では、幸運にも一人部屋に入居でき、最近は父親の部屋にあったCDを妹が持ってきて、音楽を流していたので、意識がなくなっていく中でも音楽に反応をしていました。父親の世代は、戦後に洋楽が大衆にも聴かれていく時代で、ナット・キング・コールやルイ・アームストロングなどを聴き、フレッド・アステアやジーン・ケリーの映画の話を聞かされていました。そんなことで昔の洋楽に親しみを感じていたおかげで、僕自身も海外に憧れを持ったのかもしれません。

ちょうど、昨日も亡くなる少し前にサッチモ(ルイ・アームストロングのことです)のWhat a wonderful world がCDから流れ、それ以降、僕の頭の中では、あのメロディーが流れ続けています。きっと、父にとっても天国に向かうためのテーマ曲だったのでしょう。

世界がこの歌のような素晴らしいものであるように、僕はこれから20年?30年?頑張って、この歌を聴きながら人生を終わりたいと思います。

2020年の抱負

明けましておめでとうございます。オーストラリアの会社は今日が仕事始めなのですが、実は、今、僕はオーストラリアではなく、日本に滞在しています。別に秘密裏に国外逃亡をしたわけではありません。父親の具合が悪く、年は越せないだろうと医者から言われて、クリスマスの日に急遽帰国したのでした。もう、その日はすぐに来そうですが、幸運にも正月を迎えることが出来ています。人間の生命力の凄さに感動をしています。


そんな落ち着かない状況ですが、この出来事は僕にとって何かの意味があるはずなので、2020年の抱負を考えてみました。新年の抱負って、考えてみると、その1年間の時間をどう配分するかの事業計画みたいなものです。寝る時間、仕事する時間、遊ぶ時間の質をあげていくためにどうしたら良いのかを真剣に考える必要があるんだということを、人生の時間は有限だという事実を見せつけられて、思い知らされました。

仕事の時間は、もっと多くの人たちと議論をしたいと思います。おかげさまで、会社の業績は順調で、あまり僕が気合を入れなくても、そこそこうまくいく状況なのですが、だからこそ、これで良いのかという疑問を僕が投げ続けていきたいと思います。社員、大学のマーケティング担当者、留学生たちと、「このままで良いの?」という議論をやり続けていきたいと思います。このシンプルな姿勢が、きっと仕事の時間の質を高めてくれると思っています。

遊びは、旅、テニス、家族・友人との時間、しか興味がないので、それ以外の時間を効率化して(つまりは、それ以外の時間は作らずに)遊びに没頭したいと思います。睡眠が7時間、仕事が8時間だとすると、その他の遊びの時間も仕事と同じくらい取ることができるのだから、中途半端なところで満足せずに追求してみたいと思います。

もう若くはないし、時間は限られているのだから、シンプルに、やるべきことを決めて、ひたすらその時間を楽しんで努力したいと思います。なんだか、経営方針みたいな抱負になってしまいました。

今年もよろしくお願いします。

動物を食べない日

日本では報道さえされないでしょうが、11月1日は世界ビーガンデーとして、イベントなどが行われています。ビーガン(vegan)とは、動物性のものはいっさい食べない食生活の人たちです。卵とか牛乳とかも口にしません。この週末は、僕たちがよく行くビーガンカフェでも特別メニューが提供されて、多くの人たちで賑わっていました。


僕が食べたのはナチョス、奥さんが頼んだのは植物ベースでできたソーセージを挟んだホットドックでした。ここの味付けは本当に美味しく、2週間に一度くらいはやってきてしまいます。そして、デザートはココナッツミルクで作られたソフトクリームです。若い時にテニス合宿で食べたソフトクリームを凌ぐほどの美味しさでした。


オーストラリアではベジタリアンやビーガンの方が日本に比べると随分と多く、そのためのメニューを、ほとんどのレストランやカフェが提供しています。日本に帰国して結構困るのが、そのようなメニューがとても少ないことです。きっとベジタリアンのメニューは食べる人が少ないからあきらめちゃうのでしょうけど、世界的なトレンドから言うと、随分と遅れた感じです。

畜産、特に牛肉を作る過程は、環境に悪いとか温暖化に影響を与えていることは、もう常識だし、工場のような場所で生産されている肉は薬品などで効率的に品質が維持されています。どうみても体に悪いと思っていても、砂糖と油で絶妙な味に仕立てられた安い牛丼やハンバーガーで育てられた僕たちは、その食生活を変えるのが難しいのです。

そんな生活を見直すためには、とてもいい機会だと思うworld vegan dayですが、11月1日と言う日に設定したのが、まずいですよね。ハロウィンの次の日で、みんな歩き疲れて、朝は寝坊して、元気が出ないから、「今夜、焼肉行っちゃう?」みたいなことになってしまっているのだと思います。

週末は街に行かない

台風直後の日本に帰ってきました。パースから成田にこの9月から直行便が飛ぶようになったので、試してみたのですが、飛行時間は9時間もかからないので夕食を食べ、映画を1本観て、ちょっと寝たらもう到着という感じでした。パースに留学する人は便利になりましたね。

ぼくの実家は吉祥寺にあり、ちょうど帰国した日が祝日だったので街に出かけてみると相変わらず家族連れなどでとても混んでいました。パースでは週末だと街の中心はほとんど人がいないので、そのギャップに少しびっくりしました。


オーストラリアのライフスタイルと東京のライフスタイルの違いの一つは、そんな週末の過ごし方です。

オーストラリアでは、週末に街に出かけることはほとんどありません。若い人も家族連れも年寄りも、基本的に地元だったり自然に近いところで、のんびり過ごします。僕たち夫婦であれば、おにぎりと冷たいお茶と本を持ってビーチでだらっとしています。消費活動とは一番遠いところで時間を過ごします。

週末に消費活動をしないと、日本のGDPは確実に下がってしまうと思いますが、消費活動をせずに、地元や自然の中でゆったりとした時間を過ごすことで、幸福度指数は確実に向上すると思います。日本にいる方は、次の週末は街に行くのをやめてみてください。きっと素敵な気づきがあると思いますよ。オーストラリアにいる方は、ぜひ、そんなライフスタイルをSNSなどで発信してみてくださいね。